田母神俊雄 不徳を恥じるも私心なし 冤罪獄中記 感想


 田母神さんの新刊が発売されました!

 前半は都知事候補に担ぎ出されてから、逮捕拘留された話。逮捕前と逮捕後にどのように取り調べが変質したのかが興味深いです。中盤は獄中生活。細かい食事の記録や拘置所での生活など。長い拘留生活でも田母神さんがいかに気持ちにおいて負けることなく、体も衰えないように過ごしていたのかが伺えます。真面目に日本の将来を憂えた日記の他、ネタノートを作っていたというのも田母神さんらしいエピソードです。

 後半は裁判について。ここが皆さん一番興味のあるところだと思いますが、明日が判決ですので、詳細は伏せておきます。読んだ限り、当たり前ではありますが、裁判を実際に傍聴した人の記録と同じ内容で、これを読めばいかにチャンネル桜の放送が偏ったものであるのかがわかると思います。重要なことをちょっとだけネタバレすると、数名の証人が裁判で証言しているのですが、その時の登場人物として田母神さんはあまり出てこず、圧倒的に水島社長の方が多いこと。そして公職選挙法違反に関して田母神さんはずっと容疑を否認していますが、水島社長は自ら証言台で公職選挙法違反を認めていることでしょうか。さて?なぜ田母神さんは逮捕されて水島社長は逮捕されていないのでしょうか。

 横領は不起訴になりました。しかしながら未だに水島社長は「横領で不起訴でも無実ではない」とネガティブキャンペーンを張っています。今回、田母神さんが無罪になったとしても水島社長はチャンネル桜での誹謗中傷をやめることはないでしょう。そこまでして田母神さんを犯罪者呼ばわりしたこと。そのように世間に印象付けてしまったこと。人の人生をここまで狂わせたこと。これがどういうことなのか今後水島社長は思い知ることになるでしょう。

 まずは明日の判決です。公正な裁きを望みます!




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山村明義 日本をダメにするリベラルの正体 感想 リベラル批判編

 
 今年の1月20日、アメリカ大統領にドナルド・トランプ氏が就任しました。日本では完全に泡沫扱いされていたトランプ氏が共和党の候補となった後も、日本のマスコミはトランプ氏をトンデモ扱いすることをやめませんでした。大統領選挙の前日に書いたこちらのブログ「江崎道朗 『マスコミが報じないトランプ台頭の秘密』感想」に書いていますが、あるテレビの調査でヒラリー・クリントン氏が大統領にふさわしいと思っていた人が70%、トランプ氏と答えた人は一桁でした。この選挙結果を目の当たりにした時、テレビや新聞の報道しか見ていなかった人たちは何が起こっているのか理解出来なかったのではないでしょうか。日本のマスコミならず、アメリカのマスコミもリベラル層で支配されています。前出の江崎道朗先生によると、アメリカには朝日新聞と赤旗しかないような状況だそうです。今回の大統領選で、今まで一部の人々には公然となっていたマスコミやリベラルの嘘や欺瞞が明確に表れたのではないでしょうか。今回の本でも取り上げられていますが、トランプ氏が大統領になったら海外に移住すると、多くの有名人が公言していたにも関わらず、実際に移住することなく、トランプ氏に対して寛容な姿勢を示し、自分の言動に責任を取らないための言い訳をしています。このようなリベラルの態度はどこから来るのでしょうか。

 本書はこの「トランプ現象」で化けの皮が剥がれて崩壊してしまったリベラルの現状、日本のリベラルの情けない状態、突如起こった「日本会議」へのバッシング、リベラル思想の歴史、などを通じてリベラルの欺瞞を解きおこしていきます。

 本来のリベラルは愛国と反する言葉ではありません。しかし、山村先生は「日本独自のリベラルとは何か?」と問われたら、それは「日本を貶め、卑下する考え方のままにしておく日本特有の思想」(P154より引用)だと言います。なぜ彼らは無批判に外国人の思想をしかも間違った形で取り入れ、自国を守る努力を怠るどころか危険に陥れるようなことをするのか。自虐史観のみならず、コスモポリタニズムを装った国家解体でも目指しているのかと疑わざるを得ません。もちろん、全てのリベラルが国家解体を目指しているなどと言うつもりはありませんが、どこかでその毒がひっそりと仕込まれているように思えるのです。

 おもしろい表現なのですが、山村先生は結局「リベラルとはなにか」と問われれば、「闇鍋主義だ」(P184より引用)と答えると言っています。食べれられるものも食べられないものもなんでもありで入れてしまう「闇鍋」。本来の「自由主義」等の意味を越えて、本来のその意味とは相反する設計主義につながりかねない「社会主義」や「共産主義」、行きつく果ては「暴力革命主義」。そんなものを都合よくごちゃまぜにして「リベラル」という響きの良い言葉で言い換えてしまえば嘘や矛盾が出てくるのは当たり前です。

 そして、最近のリベラルの傾向として、なぜか「保守」のふりをしたがるという指摘もあります。民主党代表の蓮舫氏ですが、なぜか自身を「バリバリの保守」だと言い始めました。二重国籍問題で散々嘘をついておきながら、安倍首相に向かって「息をするように嘘をつく」と言ってのける。神経が太いのか健忘症なのか。まさにリベラルの嘘と欺瞞を体現するような人物ではないでしょうか。

 本書の第三章で取り上げられている「日本会議」バッシング。その中でも著作「日本会議の研究」がベストセラーになった菅野完氏も、部落解放同盟、しばき隊を経て右翼に転向したと言っています。しかし、彼のネット上の記事やインタビューを読んでも彼が保守だとはどうしても思えません。

「日本会議は中身空っぽ」 異色の著述家・菅野完氏が解明

記事の2ページ目より引用

右翼の本来の役割は「国を国家から守る」ことだと思うのです。国とは“邦”であり“故郷”でもある。また、保守という視点で言えば「国家の暴走に掣肘を加える」ことも重要です。

引用終わり


 菅野氏は「国を国家から守る」と言っていますが、「国家」をどのような意味で使っているのでしょうか。国家の三要件とは中学校でも習いますが、「領域、国民、主権(政府)」です。「憲法は国家権力を縛るもの」などというリベラルな政治家がいますが、本来国家権力は内外に対して排他的で縛られてはいけないものです。言い換えるのなら「憲法は政府権力を縛るもの」でしょうか。菅野氏の言うところもその「国家」が「政府」なのか「政権」なのか今一つはっきりしません。マスコミが良く「政府の借金」を「国の借金」と言い換えて、国民に負債があるかのような報道をしますが、「国」なのか「国家」なのか「政府」なのか、あいまいにして言葉を使う人物はまず疑ってかかった方が良いと思います。特にプロの物書きならば。

 そして、菅野氏はまるで保守論壇や保守系の雑誌のせいで、ヘイトスピーチなどが増えたかのようなことを言っていますが、これこそリベラルのお得意のすり替えです。

 トランプ現象しかり、マスコミはまるでトランプ氏が世界に混迷を起こしているかのような印象操作をしていますが、実際は逆ではないでしょうか。行き過ぎたポリティカル・コレクトネスに対する閉塞感、不法移民をきちんと取り締まるどころか「人権」の美名のもとに彼らを保護、本来利益を享受すべき国民ではなく、権利を持たないはずの人達が優遇されれば不満が噴出するのは当然のことでしょう。「人権」と「国民の権利」は本来区別されなければならないのですから。これは日本でも同じことです。私はヘイトスピーチを行う事は是としませんが、それを行った人たちの目的もヘイトスピーチではなく、本来は不公正に対する声を広く知らしめようというものであったはずです。最近は、一部団体がデモを行う前から「ヘイトスピーチ・デモ」などとマスコミがレッテル貼りをしていますが、いつまでも国民が騙され続けると思っているでしょうか。多くの人が気づき始めたから、今回のトランプ氏の勝利があり、リベラルが保守を詐称するようなことが起こっているのではないでしょうか。

 補足ですが、先程の「人権」と「国民の権利」があいまいになっている理由の一つは教科書にあると思っています。日本で一番のシェアを誇る東京書籍の中学の「公民」の教科書を読んで、この二つの違いに気づく中学生がいたら天才だと思います。いろんな前提を知らずにあれを読めば在日外国人に参政権を与えるべきだと思いかねません。

 第七章で「本当のリベラリズムは神道にある」と綴られます。日本には八百万の神がいて、神様たちはそれぞれの「個性」を持ち、「共存共栄」を求めて話し合い、譲り合う。これは神話だけの話ではなく、聖徳太子は十七条憲法で「和を以って貴しとなし、忤うこと無きを宗とせよ」と定め、五箇条の御誓文で明治天皇は「広く会議を興し、万機公論に決すべし」と誓約されました。神道は西洋型の宗教とは違いますが、その精神は現代の我々にも受け継がれています。神道では無理な布教もしませんし、我が国では何を信じようと自由だという価値観が根付いています。クリスマスを祝い、大晦日には除夜の鐘を聴き、お正月には初詣に行く。いいかげんだとか節操がないという見方もあるでしょうが、片やキリスト教徒が圧倒的に多いアメリカでは他の宗教に対する配慮のために「メリー・クリスマス」ということすらはばかられるような状況になっているそうですマイノリティーや弱者を常に正しいとしてしまえば行きつく先は原理主義になってしまいかねません。自由とは、寛容とは何かと考えさせられます。こう思うと日本の「保守」こそ本当は「リベラル」なのかもしれません。

 良いものなら外国のものでも他宗教でも受け入れる寛容さと同時に、古来の伝統や文化を大切にしてきた我が国日本。リベラルの方たちも本当に「自由主義者」を標榜するのはなら、自国を大切にする心も持てば、現在抱えている矛盾も緩和されていくのではないでしょうか。

 しかしながら、本書は「リベラル」批判のみの本ではありません。日本の保守派にも鋭く切り込んでいます。特に「チャンネル桜」に対しては厳しい批判がなされています。長くなりますし、そちらは私の得意分野(?)ですので、次回、詳しく取り上げたいと思います。


 

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江崎道朗 『マスコミが報じないトランプ台頭の秘密』感想


 いよいよ残すところあとわずかとなってきました。果たして大統領になるのはドナルド・トランプか?ヒラリー・クリントンか?

 いくら考えても日本国民である我々には選挙権があるわけでもなく、その結果はアメリカ国民の意思を受け入れるしかありません。それではこの大統領選のことにあれこれ考えを巡らすのは全く無駄なのか?そんなはずはありません。悲しいことに現在の日本はアメリカに自らの国の安全保障を委ねている状態、誰が大統領になるかは日本にとって大問題です。

 こちらの本は誤解している方もいらっしゃるようですが、トランプ礼賛本ではありません。彼が大統領候補として現れた時は、誰もがトンデモ候補のように扱っていました。今でも日本のマスコミが扱うのは彼の過激な発言やスキャンダルなど。今朝見た日本の世論調査では「トランプが大統領としてふさわしい」と答えた人は、一桁、対する「ヒラリーがふさわしい」と答えた人は70%台でした。しかしアメリカでは一時はヒラリー優勢と言われていたのに、現在はトランプがかなり追い上げている。このことは日本のマスコミ報道だけ追っていても絶対にわかりません。それを江崎先生はトランプの主張や現在のアメリカの状況、戦後アメリカの政治史などからわかりやすく解説します。そこから私達の全く知らなかったアメリカが見えてきます。

 例えば、日本のマスコミはトランプの「メキシコとの国境に壁を建設する」などの過激な発言は取り上げます。しかし、なぜそのような発言が出てくるかの背景を掘り下げている番組はあまり見ません。トランプの言っていることは「移民がいけないのではなく、不法移民がいけない」という極々当たり前のことです。そして、なぜ彼がそういうのか、そしてその彼の主張が熱狂的に受け入れられるのかということの背景に「サンクチュアリ・シティ」の存在があります。

 サンフランシスコに象徴される実質的に連邦法が適用されない都市があり、不法入国者がそこに逃げ込めば、「人権」の名のもとに連邦法を犯してもそれが適用されず滞在することが出来るばかりか運転免許証も与えられるとのことです。それだけでも驚くべきことですが、その不法移民を合法化するための法律を共和党までが準備しているのです。

 日本でも外国籍の人の生活保護などが問題になっていますが、普通にその国に生まれ育って、真面目に働き税金を払っている人にとって、不法に入国し、税金も払わずに生活保護をもらう人達のことをどう思うでしょうか。しかもそれは自分たちが払った税金で賄われているのです。そんなごく当たり前の国民の気持ちを代弁してくれる。現在のトランプ旋風はそこから来ているのではないでしょうか。

 私の今書いた薄っぺらい感想などは誰でも想像できることなのでさておき、大統領がトランプではなくヒラリーになったらもうこの本を読む価値はないのか?全くそんなことはありません。この本の主題は先ほども言ったように、トランプ礼賛ではありませんし、ましてやトランプが大統領になったらどうなるかといった予測でもありません。この本は、マスコミが報じないトランプを通じて、マスコミが報じない「もう一つのアメリカ」を語る本だからです。先日UPした「倉山満 『大間違いのアメリカ合衆国』感想」でも倉山先生が訴えていることですが、大統領がトランプになろうがヒラリーになろうが、大事なことは、「どうなるか」ではなく我々日本人が「どうするか」だからです。

 この読みやすい200ページほどの本に、今まで知らなかったアメリカが描かれています。そして、私達が知らなかった背筋が寒くなるような日本の現実も。自国を自らの意思で守れない。これが主権国家の姿なのでしょうか。しかしながら、我が国を守るために我々がどうすればいいかの様々な示唆もあります。日本を愛する全ての人に是非読んでいただきたい本です。



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江崎道朗 『アメリカ側から見た東京裁判史観の虚妄』 感想


 「ヴェノナ文書」

 これについて聞いたことのある人は多いだろう。しかし「ヴェノナ文書」とは一体どのようなものなのか。本書の中ではこのように説明される。

P67より引用

 ヴェノナ文書とは、ソ連・コミンテルンのスパイたちの更新記録だ。
 正確に言うと、一九四〇年から一九四四年にかけて、アメリカにいるソ連のスパイとソ連本国との暗号電文をアメリカ陸軍が密かに傍受し、一九四三から一九八〇年までの長期にわたって、アメリカ国家保障局(NSA)がイギリス情報部と連携して開設した「ヴェノナ作戦」に関わる文書のことである。

引用終わり


 F・ルーズベルト政権内にも当時のアメリカのマスコミ内部にも多くのソ連のスパイが入り込んでいた。そして彼らは日本とアメリカを戦争へと追い込むための工作を仕掛け、戦後はGHQの一員として、日本の占領政策や現行憲法制定にも関与していのだ。

 現在、アメリカでは、特に保守派の間では近現代史の見直しが起こっているという。しかしながらそれは民間レベルの話で、アカデミズミの世界ではやはり日本同様、左派の影響が強いという。日本の歴史学会では「コミンテルン」の名前を出しただけで、実証主義ではないとまともに取り上げられないそうだ。しかし、コミンテルンは陰謀論ではない。この「ヴェノナ文書」は1995年にアメリカ政府が情報公開法に基づいて公開したものだ。日本の歴史学者はなぜこれを無視するのか。少なくとも日本の大手の教科書にはこれを検証し、取り入れた形跡は見られない。日本国憲法の制定に関わったビッソンはソ連のスパイだった。元々は英語で書かれていたGHQの作った憲法草案を翻訳する過程で白洲次郎たちはなんとか日本の国体を守るために日本側に都合のいいようにしようとしたが、それはビッソンたちによって阻まれている。皇室の条項について、「すべての皇室財産は、世襲の遺産を除き、国に属する」と邦訳しようとしていたのに、「世襲の遺産を除き」という言葉が彼らによって削除させられたのだ。現在、皇室財政が逼迫し十一宮家が臣籍降下せざるを得なくなったこともここからつながっている。しかしながらそのようなことは我々は学校では教わらない。帝国憲法下では天皇主権で、人権は法律によって制限され、自由な言論や政治活動は制限されていた。日本国憲法によって、戦前の天皇主権が否定され、国民主権となり人権の保障が著しく強化されたと一方的に歪められた形で教わるのだ。

 本書で江崎先生は「二十世紀は、ソ連・コミンテルンとの戦争であった」という「百年冷戦史観」を提唱している。この百年冷戦史観の観点から、日米の保守派は、東京裁判史観の見直しで共闘すべきだと。ソ連の崩壊で冷戦は終わったと思う人も多いかもしれない。しかし、ソ連が崩壊したからと言って、コミンテルンの末裔たちが絶滅したわけではない。日本でも、前回の衆議院選挙では共産党は議席を伸ばし、現在、根本的な主張が違うはずの民進党などの野党を取り込もうとしている。以前、「国民連合政府」の構想を共産党が打ち立てたのは「安保関連法制(彼ら曰く戦争法案)廃止と安倍政権打倒」を目的としての共闘しようというものだった。このように「平和」や「戦争反対」などの名目で、彼らの主張に共感する者たちを、巧みに取り込み、自分たちの利益のために働かせる。ここが彼らの恐ろしいところだ。
 
 今回つくづく感じたのが、共産主義者の恐るべき執念深さと保守派のナイーブさだ。昨今の若者中心で結成された(とされていた)SEALDsとて、決してうまくいっていたとは思わない。しかし、解散したはずの彼らが、最近では沖縄や原発反対運動で活動しているように、失敗してもまた形を変え、目的達成のために何十年もかけて工作活動を続けるのだ。そして、彼らは手段を選ばない。本来の彼らの主張からすれば、共産主義と宗教は相いれないはずだが、彼らは目的のためなら宗教団体にも潜入して活動する。こちらの是非はともかくとして、とかく保守派は正しいことを主張していれば、いずれ自分たちが認められると思っているとようにしか見えない。マスコミが左翼で席巻されていることを批判するのは良いが、批判するだけではなく、どうすれば自分たちの主張が取り上げられるようになるのか。自分たちがそこで主流派になれるのかを真剣に考えるべきではないだろうか。

 「ヴェノナ文書」が公開されたことによって、少しずつ解明されていることはあるとはいえ、未だに謎の部分は多い。アメリカ側はもちろん、日本の外務省も当時アメリカでの反日活動の背後にアメリカ共産党・コミンテルンの暗躍があることを正確に分析し、日米分離工作にのらないように近衛内閣に訴えていた。しかしその声に近衛内閣は耳を傾けず、親ソ反米政策を推進し、ルーズベルト政権も対日圧迫外交を強化していった。近衛の近くで尾崎秀実などのスパイが暗躍していたことは知られているがそれは氷山の一角だろう。「ヴェノナ文書」の中にはモスクワと東京の交信記録もあるそうだ。アメリカ側からだけではない、日本側からの研究も待たれる。

 残念なことに、日本で中西輝政氏の翻訳した「ヴェノナ」は絶版になっており、古本でも手に届かないような値段となっている。なんとか再販か電子書籍化してもらえないかと思い、kindle化のリクエストもしているのだが、現在ではその予定はないらしい。これだけ高額で古本が取引されるほど需要があるにも関わらず、なぜ再版されないのか。出版業界にも大きな闇があるのか。どちらにしても正しく歴史を検証しようという声が、無視できないほど大きくなるよう、保守派は左派に負けることなく作戦を立て、執念深く活動を続けなければならない。





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それは本音ではなく思いつき?! 西村幸佑 『日本人に「憲法」は要らない』を読んでみた

 8月9日に出た西村氏の新刊です。

 なぜ、こちらの本を読もうと思ったか。きっかけになったのはこの動画です。

1/3【討論!】日本と世界の暑い夏[桜H28/8/6]



 そもそもタイトルといい、一体何を話すのか?なぜ呼ばれるのかわかっていないのにしょっちゅう出てくるアートディレクターは「暑い」じゃなく「熱い」について語ってるし(悪口ではなく本人が言っている)、後半20分ほどは司会者が最近番組でいつも言っていることをだらだらしゃべり倒す。しかし、その中で著書の紹介と共に、西村氏が驚くべきことを語ったのです。

(憲法は)いらないって書いてあるんですけど。あのまあ確かにいらないんですけどね。

憲法とは一体何なのかってものを考えてほしい。

護憲と改憲っていうそればっかりの論点になると、ダメなんですよ。変なイデオロギー論争のドツボにはまっちゃうんですよ。

イギリスに憲法がないようにね。日本なんて全く必要がないわけですよ。イギリスよりはるかに長い歴史と伝統があるわけですから。


 護憲と改憲という論点ではなく憲法とは何かを考えて欲しいということには100%同意しますが、日本に憲法は要らない?イギリスには憲法がない?一体何を言っているのかと思うのと同時に、ああ先日の倉山満の砦に書かれていたのは西村氏のことだったのかと。

イギリスには憲法がない? 2016年8月6日

 もしかしたら、西村氏は憲法と憲法典の区別、実質的憲法と形式的憲法の区別がついていないのでしょうか?

 私は現在の憲法論議が空虚になってしまっている理由の一つが、そもそも「憲法とはなにか」についてしっかりした議論がなされていないからだと思っています。よく倉山満先生が使う例えなのですが、氷山全体が「憲法」とすれば、明文化された「憲法典」はその氷山の水面に出ている一部であり、「憲法」とは「憲法典」のみならずその水面下にあるもの、その国の歴史、伝統、文化、いわば国体そのものであること。実質的憲法と形式的憲法の話は、憲法を学ぶ際の初歩の初歩のはずですが、それがきちんと理解されていないために、「憲法典」が憲法の全てであるかのように誤解され、まるで宗教の聖典のように扱われ、誤植1文字も変えることが許されない、あるいは「憲法典」に書かれたことを違えずに守ることを「立憲主義」を呼ぶような捻じ曲げが起こってしまうのではないかと。

 果たして西村氏の新著は憲法論議に一石を投じることが出来るのか?それできちんと読んでみることにしました。

 一応の疑問は序章ですぐに解けました。

P18より引用

 「憲法」の常識、非常識
 憲法とは、簡単に言えば「国家の運営や基本的な取り決めを整理したもの」である。本来は、文章化されているか、あるいは慣習として尊重されているかは問わないが、普通は文章化されたものを「憲法」と言う。
 そう考えると、「国家であれば、そこには必ず憲法が存在する」ということになる。その国の政治体制が「王政」であるとか「共和制」であるとか、「独裁制」であるとか「民主制」であるとかは問わない。

 引用終わり


 西村氏は「憲法」と「憲法典」の違い、あるいは「実質的憲法」と「形式的憲法」の違いは分かっているようです。

 なお、イギリスに憲法がないと言った点についても当然ですが言及がありました。

 P19~20より引用

 イギリスに「憲法」はない?!
 1297年の「マグナ・カルタ(大憲章)」から始まり、1688年の「権利の章典」、2013年に制定された「王位継承法」までの25の成文法(2016年現在)がイギリスでは「憲法的法規」=「憲法」と呼ばれる。つまり、他国のように、ひとつのまとまった法典としての「憲法」はないのだ。
 
 引用終わり


 この後も続くのですが、結論としてイギリスに「憲法」も「憲法典」もあるのです。それなのに西村氏が「イギリスには憲法はない」と誤解を招くようなことを言い続けるのかわかりません。

 序章だけで、なんというか「雑」な感じがします。表題は本人が付けるのか編集者が付けるのか、どちらにしても本人はチェックしていると思いますが、例えば『「憲法は権力を縛るもの」という定義は、日本ではナンセンス』というのがあります。

 憲法は「国家運営の基本法であり最高法」ですので、(政府)権力を縛るという側面があります。しかし、西村氏が言いたいのはそういうことではなく、長い歴史の中で「天皇親政」時代以外は天皇に権力はない。わが国の憲法(十七条憲法、武家諸法度なども含む)で君主とその制限を明らかにしていないのは、わざわざ言葉で説明するまでもなかったからだ。だからイギリスより古い歴史を持つ日本は国家運営の基礎法典としての憲法を必要としない国だ、と言いたいようです。

 ここではわが国の天皇と民との関係を語っていますが、西村氏も言う通り、天皇は我が国の最高権威であり、天皇から委託されて権力を行使する者は別にいます。それなのにその権力者のことは無視して『「憲法は権力を縛るもの」という定義は、日本ではナンセンス』とはどういう意味なのでしょうか?そして、前にも言いましたが、イギリスには日本国憲法のように統一的な法典になっていないだけで、憲法も憲法典もあるのです。ですからなぜ日本に憲法が要らないかの説明になっていません。

 西村氏は言葉としての形式的憲法と実質的憲法は理解していても、頭の中では理解できていないのではとしか思えません。どちらにしても序章だけ読んでも、この中で使われる「憲法」が実質的な憲法なのかそれとも憲法典なのか理解に苦しみながら読み続けることになります。

 こちらの本はこのような構成になっています。

【目次より】
序 章 【憲法の基礎知識】憲法学者が教えない、「憲法」の“常識"
第1章 【改憲論の問題点】護憲派も改憲派も避けられない“真実"
第2章 【憲法の定義】改めて考える。「憲法」とは何か
第3章 【日本の近代憲法】「大日本帝国憲法」と「日本国憲法」はどう作られたのか


 巻末にも参考文献がありますし、様々な資料を使って書かれたものなのはわかるのですが、なんとも中途半端なのです。この「中途半端」な感じがどこから来るのか。結局西村氏の憲法への理解から来るのではないか。

 この著書のタイトル、『日本人に「憲法」は要らない』ですが、西村氏は本当はそのようなことを信じていないのではないでしょうか。なぜかというと、それをどうやって実現するのかの方法論が全く書かれていないからです。

 「イギリスには憲法がない」、「日本はイギリスよりはるかに長い歴史がある」、だから「日本に憲法は要らない」と言いますが、前にも書いたようにこれだけ抜き出すとひどい誤解を招きます。要はイギリス型の運用にすれば良いのか思われますが、その割にはイギリスの憲法の運用に関する記述があまりに少ない。この分量では、イギリスがどのように憲法を運用しているのか理解するのは難しいでしょう。

 そして、おそらくこれが西村氏の本音だと思われることが、あとがきに書かれています(先に上げた動画でも実は言っている)。憲法9条2項を《前項の目的を果たすため、我が国は国防軍を保持する》と変えるだけで当面は十分だそうです。何のことはない、西村氏は9条さえ守れば日本は戦争をしないと言っているお花畑の条文至上主義者と何ら変わることはないわけです。自衛隊関連法が何も変わらなくても、あるいは予算が増えなくても、憲法に「国防軍を保持する」と書けば何かが変わるのでしょうか?そもそもどうやってそれを実現するのでしょうか。そのような改憲案を今の国会で発議できるとでも本気で思っているのでしょうか。

 あらゆる資料を使っていろいろ考察したところで、すっかり台無しというか、そもそも他国の憲法との比較や、帝国憲法、日本国憲法の制定過程について書かれている本は他にいくらでもあるのです。ではなぜ「憲法は要らない」のか。日本が統一的憲法典を採用しないとして、何をその一部とするのか、日本国憲法も帝国憲法も採用するのか、そこに矛盾は生じないのか。どのようなものを判例として使うのか。そしてどのように運用するかの説明ぐらいあっても良かったかと思います。

 これで憲法に関する議論は今までのものと違ったものになるのか…。ならないでしょうねえ。結局、西村氏が何の意図でこの本を書いたのか、理解に苦しむような内容でした。





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富山市在住。夫と息子、猫2匹と暮らす会社員。

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